• 2012/08/13 掲載

【豊崎由美氏インタビュー】1冊1冊と踊る書評のために──書評というジャンルの現在とこれから(2/3)

『ガタスタ屋の矜持 寄らば斬る篇』著者 豊崎由美氏インタビュー

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スタンプ(評価)だけがあればいい?

──仲介するためのツールとして、豊崎さんはTwitterもかなり有効に使われていますよね。

 豊崎氏■Twitterをきっかけに復刊した本もたくさんありますし、本当にいいツールだなぁと思っています。ただ、書評を書く人間としては、ちょっと寂しく思うところもありますね。

 たとえば、私が「『A』という小説を読んだら面白かったです。ついては『B』のような作品が好きな人は『A』も読んだらいいんじゃないかな」と、ちょっとしたコメント付きでツイートしたとします。すると、それに対して「読みます!」ってコメントを頂戴するんですけど、嬉しい半面、「そうか、書評じゃなくてもいいんだ……」って、ちょっと複雑な気持ちにもなるんですよね。つまり具体的な面白さの説明は抜きで、お薦めというかお墨付きだけがあればいいのかなぁ……って。

──スタンプ(評価)だけあればいい、と。

 豊崎氏■書評もある種の芸といいますか、文芸の1ジャンルだと思うんですけど、それがスタンプの方だけになってしまうと……。書評に与えられる字数は平均して800字くらいはありますよね。そのなかで評者がどこをいいと言っているのか、どこを引用しているのかを読んで、自分に合う本なのかどうかを判断するものじゃないですか? そういう文章芸みたいなところには興味を持ってもらえず、豊崎由美という名前とスタンプだけをあてにされてしまうとしたら、それはちょっと寂しいですね。

 そういえば、数年前になりますが、批評家の佐々木 敦さんが「今はよくも悪くも書評の時代で、批評が求められなくなっている」という旨のことをおっしゃっていました。結局、読んでやさしい、理解しやすい書評みたいなものばかりが求められるというのは、書評家を一種のバイヤーだと思っているからですよね。その機能しか求めていないから、批評という深く読み込むようなものは要らなくなってしまった。そして、そんな時代になって長いと思うんです。でも、いまやその書評の時代すら終わりかけている。

──「結局薦めるの? 薦めないの? どっちなの?」だけになっている、ということですか。

 豊崎氏■もう感想なんかどうでもよくて、どの有名人が何を薦めているか、それだけになってしまっているような気がしていて、Twitter以降、危惧をおぼえています。実際問題、雑誌から書評のページはどんどん減っていて、軒並み著者インタビューに取って代わられている。でも、著者インタビューって驚きがないんですよね。だって書いた本人が言っていることですから。それに、書いている人だけがその作品を「わかっている」と思うなよ、とも言いたいですね。素晴らしい小説って、小説家の思惑を越えるんです。小説家が思ってもみなかった読み方が、読者サイドから出てくる。

──あと、価値観のはっきりしている人が、その価値観に沿って本を薦めることで、同じ内容の追認みたいになっているところもありますよね。書評を読んで、新しい本や新しい価値観に触れるって体験は誰しもあると思うんですけど、そこが縮減していくのは寂しいことですよね。

 豊崎氏■経済も疲弊していて、それによって失敗が許されない社会になっていることと歩を一にして、本選びにおいても失敗したくない、損したと思いたくないというムードができあがってる気がしています。でも、私がなぜ今の豊崎由美になったのかといえば、雑読してきたからだと思うんです。ちょっとでもアンテナに触れてきたらとりあえず読んでみる。その積み重ねが51歳の今の書評を書く私の血肉になっている。

 そりゃ、中にはまったく面白くなかった、自分にとっての失敗作だってたくさんありましたよ。でも、私はよく「当方比」って言葉を使うんですけど、自分にとって必要がない本でも、別の人には必要な本だったりもするでしょう? 失敗なんてするのが当たり前ですし、世界には自分に合っているものよりも合っていないものの方が圧倒的に多いんです。だから失敗っていうものは、あらかじめ生きていくことの中に埋め込まれているんです。それなのに、失敗しないように損しないように……ってことにばかり汲々としていたら、出会いが狭まり、小さい「私」がさらに小さくなっていってしまう。それはマズイと思うんです。

1冊1冊と踊る

──雑誌連載の書評という時事性の強いものが、1冊にまとめられることによって見えてくるものもあると思います。そのあたりについては、書き手としてどのようにお考えですか?

 豊崎氏■先日、書評家の牧 眞司さんが、『ガタスタ屋の矜持 寄らば斬る篇』の感想を連続ツイートしてくださいました。そこで、私の書評を踊りに見立て「作品をパートナーとした即興舞踏で、相手次第でどうにも変わる」「作品ごとに異なった斬り結びかたをしている」、つまり私の書評が、作品との相互作用の結果であることを指摘してくださったのです。外国文学好きという点においても、書評家であるという意味でも同志である牧さんが、まさに私が「そうなっていたらいいな」とイメージして書いていたことに対して、「お前はやれてるよ」と言ってくださったわけで、もう涙が出るほど嬉しかったです。「トヨザキ、お前はちゃんと1冊1冊と踊っているよ」って。

 小説家は、1作1作ごと異なるであろう、その作品を「物語る声」を探している。で、書評や批評もそうなんじゃないかなって思うんです。対象となる本を読んだことで、人は少なからずその影響を受けている。書評家は、その影響をもうちょっと表現してもいいんじゃないかなあ。素晴らしい本を読んだあとの自分は、読む前の自分とは違う自分になっているはずです。つまり、自分というものが、その本によって刷新される。それが読書という体験だと思います。ですから、「私はこんなふうに刷新されました」という報告に、自分の書評がなっているといいなと思いながら書いています。

──書評家という肩書きの人が、これまでの書評を単著として1冊にまとめてもらえるケースは少ないですよね。

 豊崎氏■もっと増えていって欲しいですね。私ももう51歳だから厳しいところもありますけど、それでもなるべく若い人たちの前に道を作ってあげたい。「重いコンダラ」を引いているみたいなものですね(笑)。まあ、均し過ぎるのも過保護でよくないかもしれませんけど、ここまでライターを取り巻く状況が厳しいと、獣道くらいは作ってあげたいじゃないですか。

 これから書評の世界にももっと若い人が出てくるでしょうし、出てこなければいけない。でも、実際のところ、これからの人のために私が一生懸命今あるパイを守っていても、私がいなくなった途端にぐっと小さくなる可能性だってあるわけです。だから、編集者や雑誌には「パイはパイのまま置いといてあげてください、あとから来る人いますから」ってお願いしたいですね。自分とともに何かがなくなったり、小さくなるのは恐いことです。そうならないように、書評の質を下げないようにすること、そして外国文学の紹介が当たり前という状況を作ること、この2つに注力しています。

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