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『関ヶ原銘々伝 天下分け目の戦いで馬鹿を見た人、笑った人』(ソフトバンク新書)は、1600年に起きた関ヶ原の戦いに関わった多くの人々の義理・人情・野心・道理・不満・不遇・保身・成り行きなど、百人百様の生き様を紹介したものだ。関ヶ原の現地のみならず日本各地でさまざまな駆け引きや合戦が繰り広げられたこの戦い。そこに身を投じることになった群像を周到に論じた歴史エッセイストの小松島六合氏に、お話をうかがった。
たった1日で終わった天下分け目の大合戦
――これだけの規模の合戦が1日で決着がついたというのは、かなり意外な印象があります。その要因としてはどのような点が考えられるでしょうか。
小松島六合氏(以下、小松島氏)■根本的な要因としては、豊臣政権に中央政権としての寿命が来ていた、それは朝鮮出兵で政権内部がガタガタになってしまっていたからだろうと思います。戦略・戦術的なことでいえば、従来から言われているように家康方の寝返り工作が上手かったことと家康が大垣城を攻撃せずに野戦に持ち込んだことが関ヶ原本戦での東軍勝利の要因でしょう。
大垣城で西軍が短期でも持久戦に持ち込んでいたら、大津城や田辺城を開城させた西軍部隊も美濃に到着していたでしょうし、家康は秀忠軍到着前に敗れていたのではないでしょうか。西軍の主力が、本戦ですべて敗走または戦死したことで、もう西軍が態勢を立て直すのは無理だ、という心持ちを、東西両軍の諸大名に抱かせてしまったため、1日で終わることになったのだと思います。つまり当日の西軍陣地には、有力者は何人もいたのですが、リーダーがいなかったのです。
――これまでもさまざまな議論がこの合戦についてはなされてきたと思います。本書では、西軍の総大将である毛利輝元が関ヶ原まで出陣していれば、東軍を包囲殲滅できたのではないか、とのご指摘もありますが、そのあたりについてもう少し詳しく教えていただけますか。
『関ヶ原銘々伝』
小松島氏■東軍は本陣に家康が坐り、全軍の中心として指揮を執っていました。諸将の部隊はただその指揮に従い、いわば本来業務である戦闘に集中すればよかった。一方、西軍は三成本人が依頼に行っても島津隊は動かない、南宮山の毛利諸隊も動かない、そのあおりで長宗我部盛親や長束正家の部隊も動けない、とないない尽くしで、最後には寝返り組が5隊も出る始末で、とてもまともな戦いにはなりませんでした。
近年の調査や研究で、小早川秀秋が布陣した松尾山には、本来毛利輝元が着陣する予定ではなかったかといわれていますし、それが実現し、輝元が采配を振るっていれば、南宮山の毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊らの部隊が動かないわけはなく、家康が彼らに背後を衝かれて苦戦ともなれば、おそらく松尾山麓の前線に配されたであろう小早川秀秋に寝返りができるはずもありません。赤座や朽木らの寝返りも起こらないでしょう。
大坂城で豊臣秀頼や淀殿を守る役目は、西軍が大坂決戦を想定していたわけでもありませんから、輝元が美濃まで出陣すると決めれば、他の大名で代われる者はいます。輝元が早めに決断して、小早川を従える形で移動していれば、西軍はリーダー(総大将)を名実ともに迎え、圧勝していただろうと思います。実際の西軍はここ一番のときにリーダーが不在だったので、戦う前から負けていたようなものです。よく似たようなことは、先日の福島第一原発大事故の際に、運悪く東京電力に起きてしまいました。会長と社長は不在で、社長は長期間体調を崩し、交替してしまいました。
――関ヶ原の戦いにおいて印象的な立ち回りをした人物としては誰が挙げられるでしょうか。幾人かお教えいただければと思います。
小松島氏■関ヶ原の戦いについて少しずつ知るようになったころから、その立ち回りについて不思議に思っていた人物は吉川広家です。あのときの毛利家中の意思統一のなさ、正反対の思惑を引きずったまま決戦を迎え、結果は西軍大敗の戦犯となって毛利本家は没落。秀元は激怒するし、一族すべてから軽蔑されつつ、本家存続に奔走するときの広家の必死さを思うとこちらまで悲しくなります。また、三成の遺児を助け、匿い続けた津軽為信、豊臣家は守りたいと思っているのに東軍についた福島正則と加藤清正の重鎮二人の心境などです。
――そもそも関ヶ原の戦いについて、小松島さんはもともとどのような印象でご覧になっていましたか?
小松島氏■印象のもとをたどると古いんです。私自身ははっきりとは覚えていないのですが、3歳のころ家にあった『徳川家康』という本を祖母にせがんでよく読んでもらっていたそうです。本が厚いので面倒くさくなった祖母がページを飛ばすと、「おばあちゃん、飛んだよ」というので、祖母は閉口したらしいです。
その後に小学生版『太閤記』を読み、それがあまりに面白かったので、秀吉贔屓になりました。それで、なんとなく家康には苦労しすぎて狡猾になった人間、三成には君恩を忘れぬ義士的なイメージを持って、関ヶ原の戦いを見ていました。