『ダイヤモンド・ザイ』『ザイ・オンライン』 浜辺雅士氏インタビュー
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月刊誌『ダイヤモンド・ザイ』を創刊して大成功に導いたダイヤモンド社の浜辺雅士氏は、続いてWeb版の『ザイ・オンライン』を立ち上げ、ネットでも多くの読者を獲得している。2つの人気媒体を立ち上げるまでの道のりから始まり、日本人とお金の関わりの変化、そして今後の展望など幅広いテーマについてお話を伺った。
ナンバー1マネー誌『ザイ』ができるまで
――浜辺さんは月刊誌『ダイヤモンド・ザイ』(以下、『ザイ』)とWeb版の『ザイ・オンライン』両方の立ち上げにかかわってらっしゃいますが、まずは紙の『ザイ』創刊の狙いからお聞かせください。
浜辺雅士(以下:浜辺氏)■『ザイ』が創刊したのは2000年の3月なんですけど、その前年、1999年の10月から株式売買委託手数料が完全に自由化されたんですよ。自由化=競争が生まれるってことだから、オンライン化することでコストを安くする証券会社、すなわちオンライン証券というものが、雨後のタケノコのようにニョキニョキと出てきた。金融ビッグバンが起きて、いわば日本の金融が民主化していくための基本的な道具立てが揃い始めた時期とでもいうのかな。
それまで日本人っていうのは、世界の中でも特殊な、めちゃめちゃお国に守られてる、お金を運用するという面においては非常に楽な国だったんです。郵便貯金の金利がいいときで6%もあって、株とかややこしいことする必要はまるでない。そういう状況がずっと続いていて、国民としては何も考えずに、みんなと同じようにしていれば、年齢とともに給料が上がって、退職金もドカンともらえ、年金だって相当な額が支給されてきたわけです。
――で、老人になったら医療費もかからないし。天国ですね。
浜辺氏■バブルのときまではね。当時すでに「これ、おかしいよ」っていうのは見えていたんですけど、あまりにもきれいに高度成長しちゃったもんだから、「このままでいいじゃん」っていう気分が満ち満ちていた。そしたらベルリンの壁が崩壊したりして、世界がどんどん変化していっちゃった。そして、もはや大蔵省(当時)が護送船団方式で金融機関を守って、国民はただただ普通に預金してローンで住宅買ってればいいっていう時代じゃなくなってるのに、そのまま変わらずに来ちゃったと。
日本の社会って制度が長く設定されているから、なかなか変えられないんですよね。雇用契約にしても30年も雇って、途中で切ることもできない。企業年金のことを考えたらその後も一生面倒を見る場合さえある。役人も「これから天下りを3回くらいして、1億円くらい貯めて、老後は悠々自適に……」みたいなプランを描いている人が多いわけですからね。せめて自分が逃げ切るまでは今の制度を潰さないでほしいって多くの人が思っていますよ。
――その間に世界はものすごい勢いで変わってるのに……。ええと、『ザイ』創刊のコンセプトに話を戻しましょうか。
浜辺氏■そうでした(笑)。結局、何が大事かっていうと、金融が民主化することなんです。そのためにマーケットがちゃんと機能する必要がある。でも、日本人の株式投資って、大手の証券会社に電話して、そこの営業マンに言われるがままに買わされちゃう感じだったでしょ。この人たちが、これから自分で考えて投資するとなるといろいろ大変じゃないですか。そこで、情報を提供する役割を担いましょうと、『ザイ』を創刊したんです。
もうサービスとしてはオンライン証券があって、98年には外国為替も自由化されてますから、FX(外国為替証拠金取引)というビジネスも立ち上がっていた。政府のほうも「間接金融から直接金融へ、貯蓄から投資へ」っていう動きになっていましたから。00年から05年まで、つまり小泉政権まではね。
――まさに期は熟していたんですね。一方で、当時の「貯蓄から投資へ」という大合唱には疑わしいところもあったような……。
浜辺氏■そこはほら、みんなで市場主義のジャングルに乗り込みましょうって話だから。ジャングルには「ガオー!」って襲いかかってくる猛獣がいっぱいいて、丸腰で行ったら食べられちゃいます。その「ガオー!」な連中が合唱してたところはありますよ、自分たちが儲けられるわけだから。でも、それ自体は、僕は悪いことじゃないと思うんです。だって、ジャングルでは食われるほうがアホなんだから。
でね、そのアホをなるべく減らしたほうが楽しいし、社会全体のためになるでしょ。マーケットもちゃんと機能するし。もちろんマーケットには怪しい部分もあって、ホリエモンみたいなのが常に出てくるんだけど、資本主義ってそういうものですから。資本主義のエンジンは株式市場なので、そのエンジンがピカピカで、グングン回ってるほうが気分いいですよね。そのための雑誌を作りたかったんです。
――なるほど。では、社内的な反応はいかがでしたか?
浜辺氏■当時の社長は「よし、やれ」って。ただし、お金持っているのは退職者だから、高齢者向けにやりなさいと。それから、今考えればものすごい余裕があった時代だったんですけど、1年間かけて、僕ともう1人の編集者でフィジビリティスタディをしたんです。でも、僕らとしては高齢者向けにしたくなかったんですよ。なぜなら、高齢者はもう変えられないから。今まで勉強して株買ったことなんてないし、オンライン証券だって敷居が高いでしょ。だったら、これからの日本の金融界を変えるであろう若者向けに、具体的には当時30歳前後の団塊ジュニア向けに作りましょうと。
で、弊社の単行本の愛読者たちに会ってコツコツと一軒一軒丁寧なインタビューをやったり、米国の事例を調べたりして、レポートや雑誌のモックアップを作って、役員会に何度も上げて、まぁ最終的には若者向けの雑誌にしちゃったんです。あのころは雑誌のビジネスがめちゃめちゃ機能してたんですよね。新雑誌を創刊するとして、定価いくらで何十万部売れて、広告がどれだけ入って、月に何億円の売上があって、それが年間で十数億円になって……みたいな画がすぐ描けたんです。今はいろんな意味で厳しくなっていますけどねぇ(笑)。