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メディア体験の変質および更新がなされている
――また、最近ではSFの分野が活気付いている印象があります。SF作品に関する評論を執筆なさっている藤田さんは、それをどのようにご覧になっていますか?
藤田氏■日本のSFというのは、第一世代の小松左京、筒井康隆、星新一の頃から、第二次大戦の敗戦によって世界観が一挙に変わることを体験したり、SFで活躍している人の中にはメディアで仕事をしていた人間が何人かいた関係で、「戦争」と「メディア」というものを強く意識しているという特徴を持っていました。
そこから、メディアが世界を作る、この世界は本当ではないかもしれない、という日本SFの重要なテーマが生まれました。それは例えば人気作家である神林長平さんや北野勇作さんの作品に顕著に現れています。そしてそれと似た問題系として、「言語SF」というものがあります。両者を簡単に言うと、言語やメディアやイメージを通して人間は世界を認識している、ということです。
今、メディア体験が変質していると、僕は捉えています。パソコン、携帯電話、スマートフォン、テレビゲーム、オンラインゲームなどが、次々と現れ、更新されていきます。そのような新しいメディア体験を次々と受け、そして新しいメディアの中で自己発信していくうちに、「端末」や「メディア」によって、自己の思考や嗜好、使う言葉や認識などが変化してしまうというちょっとした齟齬を誰もが日常的に(意識的にせよ無意識にせよ)感じる状況になりました。
例えば、僕は手書きでものを書くときと、キーボードで書くとき、携帯電話で書くときとで、それぞれ文体が違います。Twitterに書くのとブログに書くのとでは思考の質も違います。確固たる僕の思考や思想があってそれを表現しているというよりは、装置が僕の思考に入り込んで発信に影響しているんです。しかし、他人は僕の「心」や「内面」をその発信された言葉を元に想像し、そして発言の責任主体とするわけなのですが、そこに感じる微妙な違和感、すなわち「私」の揺らぎを多くの人が感じるのだと思います。これは、SFでは、人間と機械が融合したサイボーグというイメージで大げさに語ってきたものなんです。このようなSFが扱ってきた問題系が、素朴に実感しやすいような環境に変化してきたことと、SF作家の側もそれに敏感に対応したことが、現在のSFが活況を呈している理由の1つなのではないかと思います。
『社会は存在しない』
――現在のSF分野で藤田さんがとくに関心を寄せているテーマはありますか?
藤田氏■身体感覚や自我のあり方の変化や、あるいは生命の境界の問題には興味を持っています。これは「科学的にどうか」という問題ではなく、人々が自分の身体やアバターについてどう感じるのか、端末を使い分けるときに「自我」がどこにあると感じるのか、あるいは初音ミクなどのキャラクターに生命を感じるかどうかという問題に対して、「どう思うようになっていくのか」という意味においてです。人々の感じ方や考え方が変化すれば、それは感情や思想や、いずれは政治や法律にも反映されていくものだと思うからです。
それとは別に、ゼロ年代後半から何故か世界的に再流行している「ゾンビ」についても興味を持っています。最近のゾンビは襲ってくる怖いものというよりは、管理してコントロールし、奴隷や労働力や兵隊として利用すべき存在として描かれている場合が多いと思います。そのような「ゾンビ」的な生と、それをコントロールして利用しようとする人々との関係性がどう描かれていて――対抗の場合もあれば、愛の場合もあります――どうすべきと作家や読者が考えているのか。この関係性が個人的には今最もスリリングなテーマだと思っています。
――今後の藤田さんのお仕事の予定をお教えください。
藤田氏■今言ったゾンビの問題については、Webで連載している「
極私的ゾンビ論」で引き続き考えていきたいと考えています。そのような「現代SF」を通じた現代社会論を行いつつ、もう一方で日本SFについての原理的な考察を行えたら、と思っております。
それと、ずっと僕は筒井康隆さんを専門に研究しているのですが、筒井さんを軸にして日本近代文学と日本SFとを文学史的にきちんと接合させ、この国独自の発展を見せた「日本SF」に対する新たなパースペクティヴの文化史を提示できたら、というのが、中・長期的に目標としている仕事です。日本はSFが文化的に根付いた数少ない国のうちの1つなので、日本を通じてSFの本質を探り、SFを通じて日本の本質を探るような作業ができるはずなんです。その仕事を通じて、日本SFが蓄積した文化的・精神的な巨大なリソースの価値を提示できたらと思っています。
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