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  • 2022/08/18 掲載

なぜ伊能忠敬はすごいのか?「中高年の希望の星」にとどまらない人生に学ぶ成功法則

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伊能忠敬は江戸時代に日本全国を測量し、正確な日本地図を作った人物だ。55歳から測量や地図作製を始めたため、「老後の第二の人生での成功者」、「中高年の希望の星」などと言われる。では、なぜ忠敬はこうした偉業を“隠居後”に成し遂げることができたのだろうか。しかも、忠敬は単なる「元百姓」という立場で、測量経費もほぼ自腹だったというから驚きである。忠敬がどのような職業人生を送ってきたのかをひもとくとともに、実は一般に知られる「中高年の希望の星」との評価とはまったく異なるエピソードを紹介することで、現代の我々の第二の人生の成功のヒントを探る。
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富岡八幡宮の伊能忠敬像
(写真:PhotoAC/PhotoNetwork)

55歳で幕府の測量隊長、“中高年の希望の星”伊能忠敬

 中高年の学び直しや再チャレンジといった話の事例として、必ずと言っていいほど名前が挙がる歴史上の人物がいる。江戸時代に日本全国を測量し、実測による日本地図の製作にあたった伊能忠敬(いのうただたか)だ。

 忠敬は、49歳で村役人を退き隠居、50歳で江戸に出て天文学者に弟子入り、55歳で幕府の蝦夷(えぞ)地測量担当に抜てきされた。それ以降日本中を測量して回り、日本地図を完成させた。このように聞くと、忠敬は隠居を機に、天文学者、地図製作者というまったく違った第二の人生にチャレンジして成功したイメージを感じる。まさしく「中高年の星」とたたえられるようなストーリーだ。

 ところが、実際の伊能忠敬の人生を詳しくひもとくと、忠敬の通ってきた道は現代の一般的なサラリーマンの学び直しとはイメージが大きく異なることに気付く。では、現代の学び直しの参考にならないかと思いきや、そこには現代にもつながる中高年のジョブチェンジのヒントが隠されている。今回は、伊能忠敬の職業人生から令和を生きる我々の第二の人生の成功ポイントを探る。


勉強熱心な忠敬、30億円以上の莫大な資産を築く

 さて、伊能忠敬はどのような人物であるのか。

 忠敬は延享2年(1745年)、上総国、現在の千葉県の名主の子として生まれた。名主とは、江戸時代の村の役人のことである。武士ではなく、豪農や商家などがその地位にあった。現代に当てはめれば、企業の経営者兼村長のような立場である。

 忠敬は、末子だったこともあり親戚の間を転々としながら勉学に励んだ。17歳の時に伊能家の婿養子になり、当主となった。伊能家は、下総国佐原村(現在の千葉県香取市付近)で酒造、しょうゆの醸造、貸金業、水運業などを営んでいた。伊能家は、村の有力者であったが、長らく当主がいなかったため家業の状況が良くなかった。しかし、忠敬の力によって家業は順調に繁盛する。

 忠敬のキャリアとしては、17歳の婿入り後、21歳で名主後見という役職に就き、36歳の時に名主へと昇進した。その後も、38歳で名字帯刀(名字を名乗り、刀を腰に差す武士の特権)を許され、翌年には名主を監視する村方後見というトップクラスの役職に就いた。以降、49歳で家督を長男の景敬(かげたか)に譲るまで、10年間、佐原村の村政を率いた。

 村役人や商家当主としての忠敬は非常に優秀で、現代で30億円以上の莫大(ばくだい)な資産を築いた。また、天明の大飢饉(ききん)・天明の打ちこわしが起きた際も、餓死者や打ちこわしを発生させなかったと言う。

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佐原村の伊能忠敬旧宅
(写真:PhotoAC/わゆすけ)

天文学の夢を叶えるため、自腹を切ってまで行った測量事業

 現代で莫大(ばくだい)な資産があれば、老後はのんびり暮らす人が多数派だろうが、忠敬は違った。名主としての務めと商家当主から引退した後、50歳で江戸へ出た。そして、天文学者の高橋至時に弟子入りした。至時は、幕府天文方という天文学や暦の公的研究機関に新たに迎えられた天文学者で、忠敬よりも19歳下だった。

 忠敬は、村役人時代から暦学や天文学を勉強し、旅行の際にも測量や天体観測を行っていた。そのため、隠居後にはこうした学問への研究活動を本格的に取り組もうとしたのだろう。弟子入りした際も、初級の内容はある程度知っていたそうだ。

 その後、天文学の研究を深める中で、忠敬は正確な暦を作るため「地球の大きさ」や「日本の大きさ」を知ることが必要だとわかる。そして、55歳で幕府の事業の一環として最初の測量(第一次測量)へと旅立つ。忠敬は村役人時代から堤防工事の指揮の経験があったため、測量や地図作製に関する知識をある程度習得していたと言う。

 どのように測量事業が始まったかと言えば、(忠敬も関与して)師匠の至時らが、ボトムアップで幕府上層部に提案したものだった。正確な暦を作るための大規模な測量と、外交的な緊張に関連した蝦夷(えぞ)地の測量とをセットで企画立案した。

 しかし、当初幕府は忠敬を担当にした計画の許可をためらっていた。師の至時はれっきとした幕府天文方の人間だが、忠敬自身は単なる「至時の弟子の元百姓」という立場で、幕府の組織内の人間ではなかったからだ。忠敬はいわば外注業者のようである。

 測量にかかる旅費や測量器具の経費は、忠敬の自己資金で立て替えた。忠敬が測量を終え江戸に戻ると、幕府は費用の一部を精算したが、非常に少額だった。金額にして忠敬の支払いは170両以上(現在の金額に換算すると1,200万円)で、そのうち幕府から支払われたのは20両ちょっとだった。忠敬が村役人や商家出身の人間でなかったら支払うことはできなかっただろう。

 このように第一次測量では、幕府は忠敬をあまり信用しなかった上、目的も「測量試み」とされていた。いわば「非常にブラックな会社の試用期間」のような状態であった。

【次ページ】忠敬に学ぶ、第二の人生の成功のポイントとは
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