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『PlayStation』や『ドリームキャスト』などの家庭用ゲーム機をはじめ、『クラッシュバンディクー』や『キングダム ハーツ』といったゲームソフトまで、数々のヒット作を手掛けてきたゲーム業界の重要人物、それが現在セガの代表取締役副社長を務める内海州史氏だ。ソニー、セガ、ディズニー・インタラクティブ・スタジオ、ワーナーミュージックジャパンなどを渡り歩き、現在は再びセガに戻り、同社を主導している。そんなエンタメ業界を知りつくした内海氏に、手掛けてきたヒット商品の誕生秘話を聞いた。
ヒット作はどう誕生した? プレステ発売までの苦難
──どのようにエンタメ業界のキャリアがスタートしたのでしょうか?
内海州史氏(以下、内海氏): キャリアのスタート(1986年)は、当時はまだ普通の家電メーカーであったソニーでした。もともとマーケティングをやりたかった私は、「ソニーで海外の商品を売るのってかっこいいな」といった気持ちで入社しており、エンタメとは関係のない仕事から始まっています。ところが最初に配属されたのは経営企画部門で、計数管理や連結会計などを担当してました。後に携わることになるゲーム業界のキャリアなんて、まったく想像していませんでした。
入社3年目くらいで私が米国のバブルの恩恵もあってMBAに行っていた間に、ソニーがCBSレコードやコロンビア・ピクチャーズを買収してエンタメ企業になりました。帰国した後、「ビジネススクールに行っていたんだから、お前そういうの(買収会計のこと)分かるだろう」と音楽や映画部門の経営企画セクションに配属になり、そこからこの業界のキャリアのきっかけとなったのです。
──それこそ、ソニーと任天堂が仲たがいし、両社で共同開発する予定であった『Play Station』(以下、プレステ)の開発にソニー単独で取り組むことを決めるタイミングですね。
内海氏: そうですね。1992年終わりあたりだったと思いますが、最初に経営企画のスタッフとして出席したのが、まさに任天堂との共同開発に関して契約破棄を言い渡され、これからソニーはどうするかという会議でした。
ソニーとしてどうするかをその後検討していくのですが、ゲーム事業なんてやったことのある人は社内に誰もいません。ビデオグループやソニーミュージックなどから人員が集められ、久夛良木さん(プレステ開発者)を中心にワーキンググループを作って検討を進めたのです。
現在私が所属するセガとは、その時期から接点があります。同じコンソールに挑戦していたセガを調べて、久夛良木さんを引っ張って一緒にセガにアポをとって共同プラットフォームを模索すべく訪問したりもしましたが、当時は「今からは無理ですね」と門前払いでした。ビジネスプランは、技術的な側面だけでなく、自社製造の場合はどこから半導体を調達するのか、流通はどうするのかなど、とにかく足しげく方々をまわりながら作っていきました。
市場調査のために、電子機器の業界向け見本市「CES(コンシューマエレクトロニクスショー)」なども久夛良木さんと一緒に行きました。
CESでは、エレクトロニック・アーツ創設者でもあるトリップ・ホーキンス氏がちょうど松下電器と共同開発したゲーム機『3DO』のローンチのプレゼンをしており、あまりに素晴らしいプレゼンだったので「ホントに凄いですね」と僕が褒めると、久夛良木さんは滅茶苦茶に怒ったんですよ。「あんなものに感動するお前はバカだ」って、その後2時間くらいずっと説教されました。久夛良木さんはまだ日の目をみていない自分のシステムがより優れているという自負と、華々しいスポットライトを浴びているトリップに対するくやしさを自分にぶつけていたのだと思います。
ソニーの運命を変えた“たった1時間の会議”
──当時のソニーとしては単独でのゲーム事業はやるべきでないという意見が圧倒的多数だったと聞いています。ほかの役員が反対している中で、どうやって当時の大賀典雄社長を説得したんですか。
内海氏: 自分たちでゲームを開発するとこれだけのリスクがあるのかと思い知らされました。半導体の調達は本当に不可能に近い状況でして、社内の専門家は「絶対にできない」と言っていましたね。「こんなのできっこない」という意見が、最後までほとんどだったと記憶しています。投資規模もハードが絡むので半端ない。
それでも、まったく勝機がないわけじゃない、という方向でチームとしては企画をまとめました。久夛良木さんの構想が大きかったです。「これは家庭の中でのワークステーションを創る事業であって、単なるゲームビジネスじゃないんだ」と構想を一段上に持っていったことが、プロジェクトを前に進める上で大きかったと思います。
最後の決断を迫る会議は、本当に小さな会議室で行われました。久夛良木さんに加えて、当時ソニーミュージック副社長であった丸山茂雄さんなども参加し、大賀社長に対して、先ほどのごまんとあるリスクや反対意見なども含めながら、こんな未来が見える、というプレゼンをしました。そしたら、その1時間くらいのミーティングで、大賀社長が最後に「Do it」って言ったんですよ。本当にそう言っていました。
大賀さんはこの事業をジョイントベンチャーでやるべきだと言いました。ソニーがやってもソニーミュージックがやっても失敗する、それなら新しい会社で思いっきりやってみろと。数百億円かかるようなこの巨大な投資を、その1時間の少人数の会議の場で大賀社長がGoを決めたんです。
──まさにゲーム業界としてもソニーとしても、時代が切り替わった瞬間ですよね。大賀さんもよくその判断ができましたよね。普通は情報が埋まっていないその段階で検討に検討だけを重ねて、進める決断などできないと思います。ましてほかが皆反対している中で独断に近い形で決断をしたら、後から責任問題になります。
内海氏: 私もその後、マイケル・アイズナー氏(ウォルト・ディズニー・カンパニーCEO)や、大川功さん(CSK(現SCSK)創業者)、中山隼雄さん(セガ創業者)などの大物と色んな会議を経験してきましたが、やはりあの会議ほどしびれた瞬間はなかったですね。
大きな業界トレンドとか、組織の力とか、こうやったら勝てるという各戦術論だったり、いろいろな知と経験と情報が補完されていかないと、本来はあれほどの大決断はできないわけですよ。そうしたものをすっとばして「ビジネスのバリューチェーンが変わる、ここにソニーのインフラを使って事業のコアを握る」という大局的な結果に至ったあの会議は忘れられませんね。
【次ページ】プレステ最初期の地道な営業戦略、販路を広げたのは“あの人物”?
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