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またしても悲劇的な大災害が発生してしまった。2024年1月1日に発生した能登半島地震において、被害にあったすべての人にお見舞いを申し上げる。今回のように大きな災害が発生した際、被災者が直面するのが物資の不足である。食料や水はもちろん、衣料品から生活用品、あるいは暖房や調理のための燃料など、被災地ではあらゆるモノが足りなくなる。こういった被災者の窮状を救うのが、緊急物資輸送、すなわち極限の状況下で実施される物流だ。実は緊急物資輸送は、東日本大震災(2011年)、熊本地震(2016年)などを経て、大きく進化しているのだが、輸送を阻害する思わぬ要因も散見されている。
物流センターに支援物資があふれかえっていた…
東日本大震災発生当時、災害対策基本法で定められた
指定公共機関として指名されていた運送会社は、日本通運だけだった。指定公共機関とは、防災行政上重要な役割を有するとして、内閣総理大臣によって指定された法人であり、物流については緊急物資輸送などの責務を負う(ちなみに、東日本大震災以降、福山通運、佐川急便、ヤマト運輸、西濃運輸が指定公共機関として追加指定されている)。
東日本大震災が発生した2011年3月11日の午後11時ごろ、日本通運は、帰宅困難者(帰宅難民)の受け入れ施設に対する毛布の輸送依頼を東京都から受けた
(注)。
注) |
参考文献:運輸総合研究所機関誌『運輸政策研究=Transport policy studies' review』14巻3号(通号54) 2011年 Aut.『東日本大震災における緊急物資輸送と今後の課題』(日本通運 興村徹) |
だが当時は、大量の帰宅困難者が発生していたことにより、都内の道路は大渋滞していた。結果、オーダーは受けたものの、毛布を備蓄している防災倉庫にたどり着くことすらできず、最終的に輸送できたのは夜が明けてからだったという。
政府からの輸送依頼が最初に入ったのは、震災翌日(3月12日)午前4時46分。中部以西の山崎製パン工場から被災各地へのパン輸送であった。これを皮切りに日本通運は政府主導の緊急支援物資輸送の9割を担うこととなる。
当時の状況について、日本通運は興味深いデータを公開している(図1)。
これは宮城県内に設けられた1次集積拠点における、3月18日から31日までの支援物資の入出庫量をグラフ化したものである。本資料では、3月21日を除いて、全日で出庫量を入庫量が上回っている。
被災者は、「モノが足りない」と苦しんでいたのだが、支援物資を集積し、2次集積拠点や避難所へと支援物資を送り出す物流センター機能を担っていた1次集積拠点では、支援物資があふれかえっていたことになる。
物資を滞留させた「3つの反省」
まず留意すべきは、大規模災害発生時における緊急支援物資輸送は、複数の集積拠点を経由せざるを得ないということだ。
現代のサプライチェーンでは、たとえば工場に物流センター機能を併設し、小売店への直送体制を実現するなど、中間通過施設を排除していく考え方が一般的である(※ただし、最近ではあえて物流センターを多層化する考え方も出てきている)。
だが緊急支援物資輸送においては、被災地や避難所ごとに異なる状況(被害の程度や避難者の人数など)・支援ニーズに応えていくため、複数の集積施設を経由せざるを得ないという事情がある。つまり、日常の物流プロセスよりも、より手間のかかる運営を行わざるを得ないのだ。
さらに災害発生時には以下のような課題が生じる。
- 緊急支援物資輸送を被災地・被災者側からコントロールする役割を担う市区町村らの職員も被災者であり、また役所等の施設や機能も被災・損傷しているため、十分な能力を発揮できないこと。
- 市区町村の職員は物流(支援物資の手配、荷役、仕分け、入出荷など)に関しては素人であること。
- 集積拠点の多くは、公共施設(体育館や文化ホール、公民館など)であり、物流倉庫に比べて、保管や仕分けなどのオペレーションを行う上での機能不足が否めないこと。
こういった事情に加えて、道路の寸断やトラックなどの燃料不足などが生じた。
東日本大震災における反省を踏まえ、政府が行う被災地・被災者支援にはさまざまな改善が行われた。その1つが、プッシュ型支援である。
【次ページ】「個人・企業の独自支援」が緊急輸送を阻害するかもしれないワケ
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